うさぎ島をロードバイクで散策|毒ガス貯蔵庫&北部砲台跡

3.さざなみ海道

広島県竹原市にある大久野島。周囲4kmの島にウサギが500羽以上が放たれている瀬戸内国立公園の島です。

「うさぎ島」という別名が有名になるほど離島のリゾート地と人気ですが、歴史的な側面を見れば「毒ガス島」と言われる負の遺産を学べる土地でもあります。

今回は南エリアから、島の西部の海岸線をと通り、北端を目指していきましょう。

距離にして約2km、徒歩でも30分ぐらいかな。

「スポットを巡りながら」「うさぎと触れあいながら」だとプラス30分~1時間はみておいたほうがいいかも。

スポンサーリンク

うさぎ島のホテル|休暇村大久野島を出発

休暇村にあるカフェでひと休憩。全然運動していませんが、なんか居心地が良くて長居しちゃった。

というのも窓際はガラス張りになっているから、外のウサギ達を見れたんです。広場で戯れる姿をぼぉ~と眺めながら癒されました。

そんなホッコリする場所ですが、戦時中は毒ガス製造の中心地。

ウィキペディア:大久野島の毒ガス製造より引用

1929年(昭和4年)から毒ガスの製造が開始され、終戦の1945年(昭和20年)年まで開発、研究が続けられました。

学徒動員で収集された者も多く、最盛期には5,000人〜6,000人が従事していたと言われています。

島の規模を考えると、かなり盛んというイメージ。当時の最先端の兵器なわけですから、力を入れていたことが伺えます。

ただ、アメリカの原爆製造(マンハッタン計画)では、「13万人の労働者を雇用し街が1つできた」ってわけですから、思想や国力の差を感じてしまいます。

昔に想いを馳せるのもいいですが、目下の課題は気温と風!

島の西側に遮蔽物はなく、容赦なく海風に晒されます。

温かい日であったとしても、なにか羽織る物を1枚持って行きましょう。

冷風で体が冷えて、めっちゃ寒かった~(>_<)

ちなみに、ここまでローバイクに全く乗っておりません。全部、徒歩。自転車は撮影のためにただ持ってきただけ。そんな距離感です。

大久野島・三軒家毒ガス貯蔵庫跡

休暇村大久野島が建つ場所は三軒家地区と呼ばれ、往時の島の中心部でした。

戦前の毒ガス製造時に使用された貯蔵庫が、今もなおその姿を残しています。

  • 三軒家毒ガス貯蔵庫では、猛毒のびらん性毒ガス(イペリット)が格納された10tタンクがいくつも設置されていた。
  • 皮膚をただれさせる性質を持ち、総生産量(15年間)は6,616トンといわれている。
  • 毒ガスの使用は当時の国際条約でも「戦時の使用を禁止」されていたが、製造・保持までは禁止していなかった。(実際には中国戦で使用。)

毒液でタンクが腐食しないよう内部に鉛が張られていたとの事。金属でそんなになっちゃうんだから人間に使うとどうなるかは・・・。

ほとんどの者が事実を知らないまま、過酷な労働を強いられたこの場所。

開戦当初の兵隊に下される作戦命令は「命大事に帰還せよ」というものでした。それが、敗戦が確定的な戦争末期になると「お国のために戦果を上げて散れ」という命令に変わったわけですから、ここでの非戦闘員の扱いも想像に難くないですよね。

  • 毒ガスの製造にあたって、軍は洗脳的に「毒ガスの意義」を従業者に植え付けていた。
  • 「流血の惨事を引き起こす通常兵器に比べ、障害や苦痛度が低く、極めて人道的である。」
  • 実際には、島全体に刺激性の強い毒ガスが充満。防護服に身を固めても被毒していた。
  • 労働者の体調を医者が管理し、毒ガスの影響で体調が悪化すれば交代で現場作業を続ける。
  • 事務員や診療所の看護婦さえも被毒。当時の生存者は現在に至るまで後遺症に苦しんでいる。

今も昔も、国を運営する人間からしたら、個人って消耗品でしかないんでしょうね・・・。

最初にココを見学したときに「歴史的遺産に落書きする馬鹿がいるのか~」と驚愕したのですが、どうやら終戦後のGHQ(連合国最高司令官総司令部)に接収されたときのペイントらしいです。

大久野島・長浦毒ガス貯蔵庫跡

路を進めると、山に隠れるよう構築された最大の毒ガス貯蔵庫が姿を現します。

台座は貴重だったコンクリート製。三軒家より大きい直径4m×高さ11mの巨大なタンク(容量85t)を6基も設置。

防衛や保管の観点から、目立たない場所に強固に作り上げたんでしょうね。

ただ、爆撃されたわけでもないのに「なぜ、こんなにボロボロで煤けてるのか?」と不思議に思いました。理由はコチラ。

  • 終戦直後、大久野島の毒ガス製造施設は、隠蔽を目的に日本軍による破壊工作が行われた。
  • さらに、日本を占領したGHQによる施設の破壊および無毒化が行われた。
  • 無毒化には、火炎放射器を使用して残留毒素の焼却作業を実施。

「汚物は消毒だぁ~!!」っていうモヒカン野郎の名言が、史実に基づいていた事にビックリ。

倒壊の危険などもあるため、内部は立入禁止。外観からのみ見学可能。

無毒化作業から75年以上の年月が経っていますが、念のためにも、長居は禁物。

うさぎ襲来!どこにでもいるモフモフ達

その場を後にしようとすると、ヤツらに見つかりましt。

ぐわー、やめてkれ~、wたしはエサを持ってないんsんdfがvあmksd!!

「わぁ~、人間だぁ💕」
「餌くれ✨餌くれ✨」
「ねぇ、人参は?人参はないの?」
「固形フードでもいいよ!」

というガッツキ具合。ふっ、ついに私にもモテ期が来たか・・・。

足元のワチャワチャ具合たるや・・・。

港や南エリアの子たちは、ここまで餌を所望してなかったんだけどなぁ。

多くの人が、上陸してすぐに餌を消費してしまい、西側のうさぎ達まで餌が回らないんでしょうな。

君たち、ナワバリにする場所が悪いでぇ~。

周囲を見渡すと、なにやら藁っぽいものがありました。

餌の販売にこんなものはなかったと思いますから、うさぎ管理のための正式な餌かもしれませんね。

はふぅ~、かわええぇ~。ハムハム姿が最高~。

ここで、完璧に「エサを与える幸せ」に目覚めてしまいました。

次来るときは、絶対に持参するっ!!

この子とポッキーゲームするっ!!

「結局、あの人間さぁ、エサ持ってなかったよね~」
「うんうん、外れだったよね~」
「次の人間狙おうぜ」

という会話が聴こえてきそうな、うさぎ団子。う~ん、お尻が可愛い。

愛くるしいから、そんな悪口言われても気にしな~い!!

大久野島・北部砲台跡

貯蔵庫エリアを過ぎ山間部に入ると、景色が一変します。まるで、南方戦線を思わせるジャングルのよう。

異世界転生でもしてしまったのか?はたまた、無人島に転移してしまったのか?

なら、ロードバイクではなく、ナイフ・ライター・タオルを持ってくればよかった。

城の石垣を彷彿させる人工物。実はこれ、大久野島には築かれた砲台の跡地。

日露戦争が始まる前の1902年(明治35年)に設置された芸予要塞。つまり毒ガス製造される前のお話。

「広島と呉という軍事拠点」を守備する瀬戸内海防備の重要性から、大久野島と愛媛県側の小島に築かれました。

砲台こそないものの、貯蔵庫と違い、台座は当時の様相を色濃く残しています。

当時としては大型の12cm速射加農砲(カノン砲)を、島内の北部・中部・南部の3所に設置。合計22門の大砲で瀬戸内海を防衛していたんですね。

加農砲(カノン砲)は低い弾道で長距離射撃ができるという特徴があり、当時の海岸砲には最適だったらしい。

防衛の要として活躍した台座を、ロードバイクの飾り台として平和利用。

下からのアングルも好き。

お城の石垣を見たときにも思うのですが、よくこんだけ綺麗に隙間なく設置できますよね?

今ほど、重機や加工機が発達してないでしょから、製造や運搬の手間を感がると「昔の人すご~い」って思っちゃいます。

弾薬の保管庫。入り口が石でアーチ状じゃないから、コンクリ製かな?

攻撃や暴発にも耐えられるようかなり分厚い造りです。

脇道に数羽のウサギがいましたが、このエリアで目にすることは少なかったです。

また、跡地周辺は雑木林に囲まれ鬱蒼とした状況。道も入り組んでおり、日当たりも悪く暗いし寒い。

港周辺や南エリアと比べて人はほとんどいませんでした。みなさん滞在するよりただ通過だけしたって感じ。

防犯の面から女性1人での散策は避けたほうがいいかも。もちろん99.9%は大丈夫でしょうが、そういう意識は大事。

「猫を追うより皿を引け」の精神でとっとと引き上げます。

大久野島の西と北エリアを散策してみて

山を下ってきて北端の海沿いに出ました。遠方には忠海港を目指して走ったさざなみ海道が見えています。造船所の奥の山は竜王山ヒルクライコースの場所。

残すはあと1km、東エリアのみ。

南エリアのリゾート的なスポットから一転して、戦争遺跡が多く残る場所でした。学生の平和学習に使われる利用が分かります。

負の遺産からの脱却を目指して、戦後に転身が図られたわけですが、その平和がいつまでも続いて欲しいと願いたくなる場所でした。

それでは、今回はここまで。
最後までブログを読んでくださり、ありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました